松岡 鼎
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師範学校卒業後、19歳で昌文小学校(現:福崎町立田原小学校)
の校長に就任するが、後に東京帝国大学(現:国立東京大学)に
入学・卒業し医師資格を得、千葉県布佐町(現:我孫子市)に住む。

20歳で家督を継ぎ近くの村(吉田)出身の女性と結婚したが離婚。
原因は「小さな家」のためであったらしい。

最も長寿だった弟國男は、回想記「故郷七十年」に
おいて、「兄貴は二十歳で近村から嫁をもらった。
しかし私の家は二夫婦住めない家だった。
母がきついし、しっかりした人だったから、まして同
じ家に二夫婦住んでうまくいくわけがない。
『天に二日無し』の語あるように、当時の嫁姑の争い
は姑の勝ちだ。わづか一年ばかりの生活で兄嫁は逃げ帰ってしまった
。またこの事で、『この家の小ささ、という運命から、
私の民俗学への志も源を発したと言っても良い」と

生 家

述べ、國男の学問にも大きな影をおとした。また回想記には、「昔は娘が婿をとっても必ず
主人夫婦とは別の所に寝たものである。襖を隔てて寝息まで聞き取れる同じ家に若夫婦
を住まわせた私の親たちも無謀であったし、仲人をした村の物わかりの良い人々も乱暴で
あった」、「古い制度を変換すべきを考えなかった、民俗学のなさを物語っているわけだ」と
述べている。傷心した鼎は23歳で東京帝国大学(現:国立東京大学)医学部別科に入学
・卒業し翌年に茨城県布川町で開業する。開業前に茨城の旧家から嫁をもらい再婚する
が妻は後に自殺したと伝えられる。当時千葉の検見川で開業医だった海老原精一の妻
の実家である小川邸の離れに鼎を住まわせ、済衆医院を開業させた(現在は「柳田國男
記念公苑資料館」)。この為経済的に余裕の出来た鼎は、弟の國男、静雄、両親を引き
取った。國男は小川家の土蔵に納められた、多くの書物を乱読し、日本民俗学の手引書
的な著作となった、赤松宗旦『利根川図志』などもこの土蔵で見聞したと伝えられる

後年鼎は、千葉県県議会議員、布佐町長、千葉県医師会長などを歴任。國男は回想記
の中で「一生を酒を唯一の慰めにして、他郷に居る寂しさを逃れていたのが兄の境遇で
あった」と回想している。あるとき、貞明皇后に松岡兄弟の話題を提供した者があり、
その際うっかり「あそこは四人兄弟がありまして、それぞれが何か仕事をしております」と
話したところ、皇后が「もう一人、上のが田舎にいるはずだ」というのを、鼎は聞き「それで
本望」と涙をこぼし喜んだと記している。